個別指導塾のドリームスタディ設立物語

■相模原市相模大野の個別指導塾【ドリームスタディ】


 

☆★☆★ドリームスタディ設立物語☆★☆★

パートT 〜大ピンチ!〜

注)本文中の私は、ドリームスタディ代表の平間のことを指しています。

 

 2002年1月下旬のとても寒い日、妻が私にこう言った。

「歩夢(長女・生後2ヶ月)の左の目の上に、虫に刺されたような跡があるんだ
 よね。背中にも同じような跡があるんだけど、何かに刺されたのかな?」

 

私は、そう言われてみてはじめて気がついた。
そして、その虫に刺されたような跡が、だんだん大きくなってきたので、
妻が近所の病院に娘を連れて行った。
近所の病院では分からないし検査できないということで、大きな病院で検査を
受けることになった。

 

そこの病院で言われたのは、左目の上の腫瘍(しゅよう)と背中にある腫瘍を
一部切って検査するのが、一番分かりやすいだろうということでした。

但し、左目の上を切るのは難しいので、まずは背中にある腫瘍の一部を切って
検査することになった。

その腫瘍を切って検査する頃(2002年2月上旬)には、腫瘍の大きさは直径
3cm位の大きさになっていました。

 

私たち夫婦は、なぜこんなに大きな腫瘍(当時は、“おでき”と呼んでいました)
が急にできたのか、首を傾げる毎日でした。
そして、その検査をした病院でも判断ができないということで、
近くの大学病院に回されました。

大学病院に行った日から緊急入院。
もう私たちは、何か大きな病気だということは分かりました。

病院の先生からも、もしかしたら入院が長くなる可能性があるということ、
そして、大きな病気の可能性があるという話を私たちにしてきました。

 

2002年3月5日。いよいよ娘の病名がはっきりする日。
大学病院の小児科病棟にある応接室で、担当医から検査の結果と今後のこと
についての話を聞きました。

 

病名は「急性リンパ性白血病」。

 

このことを担当医から告げられた瞬間、最後の「白血病」という言葉が鳴り響く
感じがしました。テレビや新聞などで多少見たり聞いたりはありましたが、まさか
自分の子供がこんなに大きな病気だなんて・・・。
私たち夫婦は、この3月5日は覚悟の日だということは分かっていました。

事前に心の準備もしていたつもりでした。それでもショックでした。
その病名を告げられた後、しばらくの間は言葉が出ないというか言葉が見つか
らないような状態で、担当医がホワイトボードに字を書いている姿をじっと見つ
めていました。

 

心の中で「本当に?」と何度も聞き返している自分がいました。
後から聞いた話ですが、妻も「本当に?」という心境だったそうです。
恐らく10分から15分くらいはそのような状態が続いたと思います。
私たちの気持ちを理解してくれていた担当医は、ゆっくり丁寧に説明してくれて
いたように思います。

 

だんだん気持ちが落ち着いてきて、少しずつ先生の話についていけるように
なりました。抗がん剤治療をしないと治らないこと・場合によっては骨髄移植を
しなければならないこと・最低でも半年から1年の入院が必要だということ・乳
児の白血病は完治が難しいことなど、衝撃的なことを事実として受け止めるよう
にして、先生の話を最後まで聞きました。
時計を見ると既に2時間以上が経過していました。

 

私は短所もたくさんありますが、それなりに長所もあります。その長所の中で、
前向きな性格と行動力と実行力というものがあります。
今振り返ってみると、告知をされてから15分くらいは落ち込んでいたと思いま
すが、その後は先生の話を聞きながら、どうやったら治るのかを一生懸命考え
ている私がいました。
明日からではなく今からできることがないかを必死に考えていました。

 

この2002年3月5日に、私は生まれてはじめての体験をしました。
それは、人の「生と死」について真剣に考えるという体験でした。
この体験は、私が今まで経験したどの体験よりもインパクトがありました。
そしてこの体験をしたこの日から、私たち平間家の運命が大きく変わりました。
私の人生観・仕事観・価値観も大きく変わりました。

 

 

パートU 〜葛藤〜

2002年3月5日以降、娘の病気を治すことが生活の中心になりました。
今まで仕事中心の生活を送ってきた私にとっては、仕事の時間を減らすことに
不安を感じることもよくありました。家のことや子供のことは妻が全部やってくれ
るから、自分は仕事をバリバリがんばっていればいいという考えでした。

 

ここで少し、当時勤めていた会社でどんな仕事をしていたのかをお伝えしたい
と思います。

 

当時勤めていた会社は、教育関係を中心とした出版・家庭教師の派遣・
参考書等の販売を主に行っている会社でした。社員数は多くありませんでし
たが、全国展開していました。その会社に学生時代からお世話になっていて、
会社の社長や専務に可愛がられていました。仕事はおもしろかったので、
自然といい結果も出ました。

営業で売上全国1位を何回か取ったこともありました。(自慢話になってしまい
ますね。すみません。)

 

娘が病気になった頃は、ブロックの支社長として6店舗の管理全般や部下の
人材育成をしていました。

当時の私は山梨県甲府市 に住んでいましたが、管轄している6店舗というの
が「甲府・八王子・水戸・前橋・静岡・浜松」 とんでもなく遠いんです。

 

このような状況だったので、出張出張の連続。多いときは年間150日の出張
という年もありました。

この時期は仕事の楽しさも分かってきた時期だったので、
仕事中心の生活をしていました。

 

そんな時に、娘の件がありました。

 

大げさのようですが一瞬にして今までの常識や価値観が崩れました。
この件があってから数日間は仕事にも身が入らないという状態。

娘の病気の件があって仕事に身が入らない、それは自分でも理解できたんで
すが、約1ヶ月経っても仕事に集中できませんでした。その辺りから自問自答
する日々が続きましたが、ある変化に気づきました。

 

それは、自分の娘を通して、人の命の尊さや大切さを考えるようになって、
「今の生徒さん達に提供しているサービスは、こんなものでいいのだろうか?
今まで自分がしてきたことは、本当に生徒さんにプラスになっていたんだろうか?」
そんなことを考えるようになっていました。

 

決して、会社が悪いという訳ではありません。
要するに、「過去の価値観と現在の価値観」との戦い=葛藤がありました。
当時はまだハッキリ分かりませんでしたが、この頃から「自分が本当に欲しい
何かを探しはじめていた」と思います。

 

娘の治療の方は、ステロイド・抗がん剤という順番で治療は進んで行きました。
予想通り、薬の副作用の影響で髪が抜けはじめました。体もだるそうでしたが、
一生懸命がんばっていました。
時折見せる娘の笑顔が、私たちに“勇気”を与えてくれました。

 

 

パートV 〜決断〜

2002年5月中旬頃、私はある決断をしました。今までもいくつか決断すべき時がありましたが、これ程私自身にとって大きな決断はなかったかもしれません。

 

私は、2002年8月一杯で会社を辞めるという決断をしました。

 

この時は周囲の人には相談をしませんでした。
妻には、私が思っていることや今後のことをしっかりと説明したつもりでしたが、恐らく不安だったと思います。それでも私の意見に賛成してくれました。

何故周りの人に相談をしなかったかというと、もう私の意志は固まっていたの
で、相談というよりは報告という感じでした。

 

会社を辞めようと思ったのは、娘が一生懸命病気と戦っている姿を見て、私も
挑戦してみようと思いました。

以前から独立して仕事をしてみたいとは思っていましたが、この時期に決断し
た大きな要因は、やはり「娘」でした。迷いや不安が無かったのか・・・たくさん
ありました。しかし、その迷いや不安より「夢・希望・目標」の方が何十倍も上
回っていました。

 

2002年5月中旬に会社を辞める決断をしてからは、自分の気持ちが固まった
からだと思いますが、気持ちが楽になりました。そして、8月に会社を辞めるま
での残り約3ヶ月間、今までの集大成としてがんばろうと思いました。

 

ただ、どうしても会社を辞めてからのことが気になってしまうのと、娘の治療が
かなり厳しい段階に入ってきたので、精神的には辛い日々が続きました。

 

さて、会社を辞めて何をするか?私は迷わず学習塾を始めようと思いました。
もともと家庭教師の派遣の仕事をしていましたので、教育産業には興味があり
ましたし、自分の経験を活かせるので学習塾に決めました。

そして、自分の子供の病気を通して、更に子供と接する仕事がしたいと感じました。

 

私は週に4日から5日、大学病院の小児病棟に通いましたが、夜7時という時
間がとても悲しい時間でした。

小児病棟には、小児ガン・脳の病気・心臓病・白血病など、本当に大きな病気
にかかっている子供達が入院していました。その病院は完全看護の病院だっ
たので、面会出来る時間は夕方3時から夜7時まででした。

この短い時間の中で、親子のコミュニケーションを図らなければなりません。
入院している子供にとって、この時間は一日の中で一番楽しみな時間なのです。
お父さんやお母さんとお話をしたり、絵本を読んでもらったり、我がままを言ってみたり、ご飯を食べさせてもらったり。

 

私達大人もそうですが、何か楽しいことをしているときは、時間があっという間
に過ぎて行きますよね。

子供達にとって、この面会時間はあっという間の時間です。夜7時、面会に来
ていたお父さんやお母さんが帰る準備を始めると、誰かが必ず泣き始めます。
そうすると他の子供も自分の親が帰ることに気づき泣き始めます。この泣き声
を聞くと、親も悲しくなります。私の娘は、入院当初は親が帰る(いなくなる)こ
とに気づいていませんでしたが、入院2ヶ月目位からは分かるようになり、
私達が荷物をまとめて帰ろうとすると「抱っこ抱っこ」と言って泣くようになりました。
これがとても辛い。このように泣かれて分かれるのが辛かったので、6時
50分位に娘が寝付くように、私の妻はいろいろ工夫をしていました。

 

このような経験を通して、子供と関わる仕事がしたい。そして、多くの子供の笑
顔が見たいと強く思うようになりました。

 

会社を辞めるのは決めましたが、当然その前にしなければいけないことがあり
ます。それは、会社の上司にきちんとお話をして、その上で辞表を提出すると
いう大事な作業です。                       

 

会社を辞めるときに、こんなに勇気とエネルギーがいるとは思いませんでした。
今冷静に考えて見ると不思議な話ですが、上司に「○○なので、会社を8月
一杯で辞めたいんですが」と最初にお伝えしたときに、ハッキリと「君は駄目だ」と言われました。あまりにもハッキリ言われたので、その後なかなか言葉が出ませんでした。今でも覚えていますが、こんな感じでした。

 

私     実は、○○なので、申し訳ございませんが8月一杯で会社を辞めさ
       せてきたいんですが・・・

上司     君は駄目だ。

                   (しばらく沈黙)

私     駄目だといいますと・・・

上司     君は今子供のこともあって疲れているんだよ。
       だから、今回の話は聞かなかったことにするから。

私     確かに疲れてはいますが、自分なりにいろいろ考えた結果です。

上司     とにかく将来的な構想の中にお前が入っているから、認めることは
       出来ない。

 

このようなやり取りでした。結局、最初は却下されてしまいました。思わぬ展開
にビックリ。ただ、私に対しての期待と愛情が伝わってきたので、うれしい気持
ちもありました。さぁどうしよう・・・。

 

娘の治療の方は検査の結果、染色体に異常があるということで、なるべく早い
時期に骨髄移植か臍帯血移植が必要だということになりました。
更に、@乳幼児で体力がないのでもつかどうか A移植が上手くいっても5年
生存率は極めて・・・と言われました。またまたショック。
移植は必要だが、その前にドナーがいるかどうかという問題がありました。

 

赤血球に型があるように白血球にもHLAという型があるようで、私達夫婦の
HLAの検査をしましたが、娘とは型が合いませんでした。(親子のHLAの型
はほぼ合わないそうです。説明すると長くなるので省略させて頂きます)

他にも調べましたが、骨髄移植ではうちの娘に合うものはありませんでした。

 

その後、臍帯血移植であればうちの娘に合う型があるという報告を受けました。
しかも、ここ数年のデータを見てみると、骨髄移植より臍帯血移植の方が再発
の確率が低いということを先生から教えて頂きました。

 

臍帯血移植の日は、2002年8月6日PM3:00に決定。

 

 

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